佐々木敦さんがくるりについて語る

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佐々木敦さんがくるりに関して語っていた文章が面白かったな~と思って探してみたんですが、現在では読めなくなっているようなので引用しておきます。

文中で出てくる「百鬼夜行の今年のメンツ~」というのは2002年のことだと思うので

THA BLUE HERB遠藤賢司REI HARAKAMIBRAHMANART-SCHOOL
SPARTA LOCALS、MO’SOME TONE BENDER、DRY&HEAVY、ACOTWIGY
SOUL FLOWER UNION矢野顕子

ですね。
http://tower.jp/article/news/2002/10/11/100000605

元アドレスは
http://www.faderbyheadz.com/a-Site/column/column/qururi.htmlです。

くるりを語る


── 佐々木さんとくるりの音楽との出会いから聞かせてください。

 ある日、事務所にひとりで残ってずっと仕事してた夜、たまたまもらってた『もしもし』のサンプルを聴いて……「東京」にやられた。もう完全に。ホントびっくりしましたね。趣味っていうだけじゃなくて、僕の仕事全体がいわゆる音響系とか打ち込み的な音楽っていう方向が多かった中で、自分的にもそのころ求めていた音っていうかね。
 ずっとそれ以前には普通にロックも好きだったし、とりわけ洋楽に関してインディー・ロック的なものはずっとやってきたけど、そういうのはあんまりメインで仕事に関わってなくて、趣味的にしか聴いてなかった。そういうツボを押された感じがすごいして。今のこれくらいの世代の日本のバンドでは珍しく、わりといちばん最初から聴いてたんですよね。で、デビュー時から何回かいろんな形でインタヴューをやってるんで、そういう意味では個人的なレベルでのシンパシーのあるバンドのひとつですね。
 なんといっても「東京」の、スケールの大きいんだか小さいんだかわかんないとこっていうか──出会い頭の衝撃かもしれないけど、聴き直してみても個人的にはインディー盤のシュガーフィールズと一緒に録ったヴァージョンがすごく好きなんです。録音のスペック的にはすごく低いにもかかわらず、すごいスケール感があの曲にはあるじゃないですか、ギターの感じとかも含めて。ちょっと貧乏な京都の学生さんみたいな感じを醸しだしながらも、どこかでペイヴメントあたりのアメリカのインディーズ的なある種の雄大さや、底の抜けてるような広がりっていうのにも通じてて、その中にすごいエモーショナルなものが息づいてる感じがして。
 そのイメージがいまなお持続してる感じが僕の中にはあるんですね。本当は非常にプライベートなちょっとした感覚とか想いみたいなものが根にあるんだけど、そういうものを非常にポピュラーでスケール感がある音楽として表現できるっていうパラドックスがある感じが、くるりなんじゃないかなあって気がしてて。それは「東京」の時から思いますね。

── 個人的に、『さよならストレンジャー』が佐久間(正英)さんプロデュースだったことが意外だったんですよ。佐久間さんは日本的ロックの王道な音づくりをされる方で。

 それは誰しも、ものすごく意外だったと思うんですよ、佐久間さんの仕事を知っていればいるほど、くるりを知っていればいるほど。僕がいちばん最初に『もしもし』なり『ファンデリア』なりを聴いた時に本当は気づくべきだったんだけど、くるりっていうバンドは──すごく簡単に言っちゃうと──音楽的にすごくいろんなことがしたい人たちなんですよ。実はインディー盤の時から1曲1曲変わったことをやってたりしてたんだけど、あんまりそう認識がなかったっていうのは、インディー・レベルでのミニ・アルバムってまだ方向性が定まってないからいろいろやってるっていうことが多いから、それだと思ったの。だから僕の中では、あくまで「東京」や「春風」みたいな方向の本線があるもんだと思っていたわけ。だけど、本線っていうのを実はあんまり限定したくないようなキャラクターのバンドなんだなっていうことは、だんだんアルバムを追うごとに分かってきたじゃないですか。

── ええ、ホントそうですね。

 いちばん最初にインタヴューをしたのはファースト・アルバムの時だったと思うんだけど、その時からはっきり岸田くんの中では、日本のいわゆるフォーキーなロックとかそういう流れに位置させられたくない、と。いわゆるはっぴぃえんどから連なるアコースティックなフォークロックみたいな流れのものに、自分達がバンド名もあってハマりやすいっていうことを意識してたからだと思うんだけど、それに対してすごい嫌悪感を当時から表明してて。そうじゃないんだと、僕らはひらたく言うとフランク・ザッパみたいなバンドを目指しているんですって言うんです(笑)。フランク・ザッパのアルバムみたいにいろんなものがあって、めくるめく感じが理想なんです、技術的にそれがなかなかできないけども、そういうことをやりたい部分があって、いわゆるギター抱えていい歌うたってみたいなところに限定されたくない──ってことはすごく言ってたんです。
 だから多分、メジャーでちゃんと1枚作るってなったときに、その前に2枚も出してるインディーからの流れの中で、やっぱりある層からは固められつつあった自分達のイメージっていうのを打ち砕こうとする振り切れ方を選ぼうとしたんじゃないですか。その中でいちばん良かったのが佐久間さんっていう存在だったんじゃないのかな。
 つまり、メジャーで堂々とデビューするわけだから、違う意味でマイナーな方向に振り切れちゃうっていうのは、そういう意味ではよくないわけで。

── だから“未完成さも含めてぜんぶ注ぎ込む”っていう通例のファーストに作用する力学ではないですよね。

 そう、だからそこですでにもう1回、かなり大きく内的にも外側からのスタイルとしてもグレードアップしようっていう意志はすごい見えた。最初、シングル出してアルバムいってっていう過程の中では、それこそスーパーカーとかトライセラ(トップス)とかナンバーガールとか、比較的近い時期にデビューしたギター・バンドが色々いるところで方向性を見極めていくっていう部分があったような気がする。ファーストがどれくらい売れてどれくらい評価されるのかみたいなことに関しては、やっぱりけっこうナイーヴになってた感じがした。しかもそんなものすごい結果は出なかったと思うの、正直。だからその中でどういう風にやるべきかっていう時に、またいろいろ出てきたんじゃないかな。佐久間さんと組んだのは、扉を開けるみたいな感じだったんじゃないかな。

── 未完成なものを最初に提示して、それ以降は成長の過程をドキュメントに見せていくという、いわゆるパンク的アティテュードのバンドとは明らかに違うってことですよね。

 違いますね。ある意味、楽曲的な意味では最初から完成されて出てきたバンドだと思うんですよ。そうすると、あとはサウンド面をどういう風にしていくのかという部分で、必ずしも岸田くんなり他のメンバーってそんなに沢山音楽聴いてきた人たちじゃないと思うわけ。もちろん他の人たちよりは聴いたと思うんだけど、いわゆるリスナー型のミュージシャンとはちょっと違うと思うんですよ。そういう風に思われてる部分もあるのかもしんないけど、どちらかというともうちょっとプリミティヴな音楽衝動がある人たちで、そういう意味で言うと最初の時っていうのはディレクションだけはいっぱいあるんだけど、ディレクションの根にあるものはそんなに深くないと思うんです。
 普通だったらその中で1個を選んでいくと思うんですよ、でもそれをしないっていうのは勇気があると思うし、そこもちょっと変わってるといえば変わってると思うんですよ。ある時期までは、どっちかというと“くるりはこういう音を出すバンド”っていうある種の表看板を出す事態を強硬に避けてるような印象があって。普通それだと拡散していったりしちゃうんだけど、そういうこと自体を自分達のキャラに転化させていくような力技が途中から出てきたっていう感じですよね。それがすごいと思いますね。やっぱりアルバムは最新アルバムがいちばんいいと僕は思うし。

── “くるりって実はこういうバンドなんだ”っていうのが『図鑑』でようやくわかった人ってかなり多いと思うんですよ。

 そうですよね。あれがやっぱりひとつのポイントじゃないですか。

──ジム・オルークのような人をお茶の間にも紹介しうる力を持ってるアルバムじゃないですか。

 そうそう。もうホントいきなり“ジム・オルークをプロデューサーにしたい”っていう連絡があってね。

── まずはそれありき、だったんですね。

 なんだけど、でもさっき言った意味でマニアではないわけ。マニアックなリスニングをするタイプの人たちじゃないんだけど、極めて勘とセンスがいいわけですよ。あとやっぱり勇気がある。普通だったらどこか絞り込んでいく感じになるわけですよ。捨てるものと残すものってやっていくんだけど、それは当然最終的にはあるとしても、それをなかなか判断しないでちゃんと保持していく部分があると思うんですよ。
 だから彼らってアルバムのレコーディング期間もあんまりきっちり決めないんですね。ずっとレコーディングしてるんですよ。いろんな人をプロデューサーに使っていくつもの線を作って、そういう中ですごく伸びていくものもあるし中断するものもあるし……っていう形をとってて。だから普通のバンドみたいな、レコーディング期間を設定してプロデューサーを決めて……っていうやり方をファーストより後はしてない。そのしてなさっていうのは、やっぱり力ですよね。そこはかなり他の同世代のバンドとは違ってる。
 特にポップになればなるほどそういう傾向が強いと思うんですけど、普通はアーティストってけっこうマイブーム型なんですよ。なんかハマるとそういう音楽になるわけ、モロに。アーティストにセンスがあればあるほどその意向は強いから、メーカーもそのまま行くじゃないですか。だからけっこうコロコロ変わってるように見えるバンドって多い。それがいい場合ももちろんあるんだけど。くるりの場合は、変わってるように見えるんだけど、実は要素自体はずっとあるんだよね、全部。A→B→C→D→……ってなっていくんじゃないわけ。A・B・C・D……っていうものが最初から並列して競争してて、それの中で並び方が変わってるだけっていう感じがするんですよ。それはやっぱりすごい勇気と自信がないとできないことですよね。ワケわかんなくなっちゃう可能性あるわけじゃないですか。

──そうですよね。初期のくるりに対してのリスナーの判断は“好き/嫌い”で完結してたと思うんですが、特に『TEAM ROCK』以降は“好き”の中でもさらに賛否両論がある感じがするんですよね。

 それは確かに言えますよね。だからすごい売れてる割には、一面的な信仰に近いようなファンがあんまり見られないバンドだと思います。すごく熱心に聴いてるファンでも“ここはいいけど、ここは好きじゃない”っていうようなプリズム状になってると思う。
 ある程度売れるアーティストって、ある意味ではリスナーに対して信仰を強いる部分があると思うんですよ。自分がそういう風に言ってなくても、そういう回路が聴き手にできちゃう存在って多いと思う。コーネリアスなんかやっぱりそうだと思うわけ。小山田(圭吾)くんはすごく個人的な人だと思うけど、彼が個人的に振る舞えば振る舞うほど、彼を「いい」って言っちゃうような人はある意味では判断力を失っていくようなプロセスがあったと思うんですよ。でもくるりの場合って“くるりだからOK”ファンをそんなに多く抱えてなくて、それが実はある意味では弱さと言えるかもしれないんだけど、それとは違う支持のされ方があると思うんですよ。ファンサイトとかBBSでもたいていの場合、かなり賛否両論受けまくるということになってるらしく、それは健康的なことだし、そういうファンの在り方を形成し得たっていうのは、彼らの活動の仕方がそのままはね返ってるわけだから、そこはやっぱりユニークなとこですよね。

── 『TEAM ROCK』から『THE WORLD IS MINE』に至る感じも、僕の想像とはちょっと違ったんですよね。なんて言うんだろう……『TEAM ROCK』の持つヴァラエティと『THE WORLD IS MINE』のそれってちょっと違うじゃないですか。

 うん、それは言えると思う。こうやって話してみると、ものすごい天才バンドみたいじゃない?(笑)。でも要所要所ではそうとう悩んでると思う。そうとう悩んでて“どうしようかな?”ってことの連続だと思うんですよ。
 だからどっちかっていうと、結果が全部いい感じに動いて今に至ってるけど、局面局面では試行錯誤の連続だと思うわけ。だからそういう意味では『TEAM ROCK』ってすごく危ういバランスを持ってたアルバムだと思うんですよ。それは、勘繰れば、ある意味バンド的な収斂度自体もある種の危機にあって、それで『TEAM ROCK』ってタイトルになるわけ。それが岸田くんらしいと僕はすごく思ったんだけど……これ超勘繰りですけど、あの時はそう思った。あの時すでに危機はあったと僕は思う。なんだけど、そこで『TEAM ROCK』っていうタイトルになるわけじゃない。しかも「ワンダーフォーゲル」のサビの歌詞なんてメチャメチャ象徴的なんですよ。そういうような危うさもそのまんまアルバムにちゃんと収斂させてて、それで最終的に『TEAM ROCK』というタイトルを付けられるっていうこと自体が強さだと思うんですよね。つまり、勘繰りをそのまま言っちゃえばね、あのアルバムは音楽的な意味でも人間関係的な意味も含めて、くるりっていうバンド自体のある種の危機みたいなものと、その危機を乗り越えようとしたっていう苦闘と、乗り越えられたかもしれないっていう希望が、全部封じ込められてると思って、それがすごい感動的だと思うんですよ。だから、単に作品として見たらちょっとバランスが悪いアルバムだと思ったんですけど、それには理由があったんですよ。だからあれがないと『THEWORLD IS MINE』にいけないってことだと思うわけ。だからそういう勘繰りをしていくとすごいおもしろいというか、物語がいろいろ書けちゃうっていうのもあるんだけど(笑)。でも僕はやっぱり『THEWORLD IS MINE』がいちばん、バランス的にもおもしろいし、いいと思うし、いちばん傑作だと思うんだけど、その傑作っていうのは、やっぱり前作がないとああはならない音だと思う。

── だから聴き重ねていくと「あぁそういうことだったのか!!」って思えることが他のバンドよりいっぱいありますよね。

 そう、それは言える(笑)。だから、すごい深読みのしがいがあるんだよね(笑)。その深読みの仕方っていうのが、よくある変な深読みじゃなくて、音とつながった深読みができるのがいいと思うわけ。なんかアーティストの心情とかロック雑誌好きの人が喜ぶようなことももちろんできるんだろうけど、そうじゃなくってあくまでできあがった音から、いろんなことが推し量れちゃうところがすごくおもしろいし……こうやって喋っててもいろいろ喋れちゃうところなんですよ、要するに(笑)。他のバンドじゃ、そういうわけにいかないところもあるから。

── 僕は『THE WORLD IS MINE』のツアー「うんぽこどっこいしょ」のアンコールで演奏された「ブルース」を聴いて、初めてファーストからのディスコグラフィーの重ね方が理解できた。ギター・ロック王道的アルバムをなぜ最初に作ったのが、そこでピンときたんですね。

 変化してるんだけど捨ててないんだよね、実は累積してるんですよ。どんどん累乗してて、音楽性の幅も表現の幅もどんどん広がってて、その中のどこが表に出てくるかっていうのは毎回違うんだけど、実はそのどれもが本当はある。もうああいうタイプの音楽はやらないっていうことはないわけですよ。いつずっと前に1回だけ試みたアイデアが復活されてくるかわからないっていう、そういうスリルもあるよね。好きっていうか、ちょっと得難いバンドだと思うから、これからも見ていきたい──なんてえらそうな(笑)。でもそういう感覚にすごくさせられるバンドですよね。

── 主催イベント「百鬼夜行」をスタートさせたあたりから、作品外でもトータルなものを構築し始めた気がするんですけど、その時のアーティストのセレクションの傾向なりがその後の作品で反映されてると思うんです。

 やっぱりちゃんと聴いてる音楽とか好きなものっていうのはどんどん広がったり変わったりしていってて、それをちゃんとフィードバックさせてる感じっていうのはするんですよね。たいていの場合エレクトロニカ的な感じだったらそれだけでドーンといっちゃうんだけど、それだけだとヤだな、っていうね。ある意味ではちょっとオブセッシヴな感じもすると思うんですよ。“俺ってこんなヤツ”みたいに人に決められたくない気持ちがすごく強いから、そういうようなベクトルが見えると、必ずそういうのじゃないオルタナティヴなものを出していこうとするわけ。それって多分に性格的なところもあると思うけど、それがすごいいい具合に作用してるっていうのがあると思う。

── 「百鬼夜行」が内包するヴァラエティすべてをオーディエンスが咀嚼しうるっていうのは、個人的にはちょっと驚きなんですよ。

 多分いちばんポイントなのは、アルバムの音楽性もそうだと思うんだけど、いろんなスタイルの音楽があったときにそれを全部楽しめる人はなかなかいないんだけど、それはもちろんわかってて、まず岸田くんとくるり自身は楽しんでるっていうのが前提としてあるとすれば楽しめるはずだっていう確信があると思うんですよね。コンセプチュアルに自分達自身はそんな好きじゃない音楽もパッチワーク的にはめてるんだったら、ある意味、説得力はないと思うけど、彼ら自身には、俺はこれもこれもこれも好きで、だから集めましたみたいな。「百鬼夜行」の今年のメンツにしても、もうホントにただの思いつきに近いと思うわけ(笑)。それはコンセプチュアルじゃないんだよね。もうホント感覚的なものであって、それを総体として見たら訳わからないってことになると思うんだけど、その訳わからなさの理由付けは、“イヤ、でも俺はこの人たち好きなんです”ってことだけだと思うわけ。
 でもそれはやっぱりすごい強いよね。そうじゃない、企画モノみたいな形だとホントにお客さんはついてこれないと思うんだけど、そこの部分は揺るがないわけじゃん、どんなにジャンルがバラケたとしても。岸田繁くるりが選んだ人たちなんだ、彼らはこういう音楽を聴いてるんだってことはもうハッキリしてるわけだから。それがファンに対してのいい教育効果を生んでる気がするんですよね。
 ある時期以後、今まで話してきたような多方向性そのものがくるりっていうバンドのアイデンティティになってきたから、それ自体がすごく強いコンセプトになってると思う。だからあえてコンセプチュアルに動かなくても、どっちかっていうとあえて身勝手で野放図な動きと作品作りをすればするほど、ちゃんとそれが評価もされるし、いいものができる感じになったんだと思うんですよ。感覚的に振る舞えば振る舞うほど、くるりは感覚的に多方向性っていうのを出していけるし、それをもともと持ってるっていう認知がキッチリされてるじゃないですか。そういう他にはちょっとないタイプの強いアーティスト性を確立したよね、ここまできたら。アルバム単位でいったらホントにそういうものになってるじゃないですか。
 そういうことが可能になったのは、シングルがヒットするようになったというのもあると思うけど、1曲の力がそういうものにはね返ってるっていうのが自信にもなってると思うし、ちゃんと1曲で勝負できるから、アルバムではトータルである種の世界観を多様なものも含めて提示したいっていう風に分けていけるから。シングル・カットしたものがそういう多様性の一部に過ぎない形になっちゃうとちょっとしぼんでいく感じもあると思うけど、1曲でも勝負できるっていう自信がヴァラエティもアリなんだっていうのになっていくと思う。

── そうですよね。だから、人肌的な体温を持った「男の子と女の子」を最新シングルとして提示しても、原点回帰だとは捉えられてないですよね。

 だから、それはそうとう強いと思うの。多分今って、バンドだけに限らず、アーティストってずっとほとんど同じ曲を出してて、ある意味それでいいバンドもいるんだけど、極端に他のことやるとよくないという面もあって。もう一方では、音楽はどんどん変わってるんだけど、それをアーティストのカリスマとかパブリック・イメージみたいな部分だけで帳尻を合わせていて、実は音楽的に変化してるってこと自体にそんなに意味がないっていう人も多いと思う。そのどっちとも違うんだよね、くるりって。
 音楽的にどんどん変化していっててなお、ちゃんと強固な一貫性を、見える形で提示してると思うから、それは他にほとんどいないんじゃないですか。もっと長いスパンならあると思うんですよ。1〜2年の間に緩やかに変化していってて、ふと気付いたら前とは全然違う音のバンドになっててっていうのはあると思う。スーパーカーなんかそうだよね。でもくるりの場合はシングル1枚で変わっていくわけでしょ。にも関わらずコロコロ変わってるとはもう決して言われないし、むしろ変わること自体が自然に受け止められてるっていうのは、そうとう難しいよね。他にほとんどいないんじゃないかな。

── そうですね。他にいないってことで言うと、今のくるりって明らかにある部分が突出したアーティストですよね。でも、抽象的な“世界を救うロックの未来”なる妙な期待を背負わされることからの自由を持ち得てるような印象があります。

 それもやっぱり、多様性を保持してるからだと思うんですよ。本人たちの“次はこれしかない!”っていう強力なディレクションを出しちゃうと、どうしても“これしかないのかな?”って見えるじゃないですか。だけど、彼らはこれしかないとだけは絶対言わないバンドなんですよ。“これもこれも、これもアリ”っていうタイプのバンド。それがロックの未来を託されずにすんでるっていう部分なんじゃないですかね。
 インタビューとかでも、「打ち込みっぽいものを導入しましたね」って言うと「いやあ、それだけじゃないんですよ」っていう言い方ばっかりするから(笑)。常に「今これがいいと思ってるんですか?」っていう質問に関してはそういう答え方を絶対にする。だからそれは天の邪鬼なんですよ、本当は(笑)。なんだけど、天の邪鬼さがこんなに健康的にバンドの音に反映されてる存在って、やっぱりすごく珍しい。普通はただの天の邪鬼になると思うんで(笑)。それはやっぱり人格的な部分もあると思うんですけどね。
 今、僕は大学でポップメディア史という授業をやってるんですが、今年の7月頃、ゲスト講師で岸田くんに来てもらったんですよ。それはただ好きな音楽持ってきてもらって僕が聞き手でしゃべってもらうっていう、ほぼ公開インタヴューに近いもので。他にもいろんな人でやったんですけど、岸田くんがやっぱりいちばん評判が良くて。いちばん人気があったっていうのはもちろんなんだけど、岸田くんってロジカルじゃないんだけど明快なんだよね、自分のやりたいこととか今の音楽的な趣味っていうものに。その時にもブルガリアン・コーラスとかザ・フーとかエイフェックス・ツインとか宇多田ヒカルとか、いろいろ持ってきてかけていくんだけど、全部説明がついてるんですよ、“なんで今、俺はこれが好きで、人に聴かせなきゃいけないと思ってるか”ってことに関して。単に、理由がないけどハマってるんですっていうんじゃないんですよ。ちゃんと1個1個に理由がある。その理由付けがあるっていうのは、やっぱり自分達の音楽が変化するときにもちゃんとあるんだと思う。それがすごくわかっておもしろかったですね。彼、人の音楽語らせてもおもしろいじゃないですか。

── いわゆる評論家のそれとは違いますよね。

 そうそう。かといって“僕は1人の作り手としてこう思う”ってのとも違ってて、なんか……ヘンな軸があるんですよ(笑)。だから、音楽マニアとかのクリティカルなものでもなく、かといってすごくナイーヴな極端なマイブーム型とも違う、岸田くんっていう人はもっとその真ん中の、ある意味では新しいタイプの音楽の聴き方のすごくいいひとつのサンプルになってる気がする。いっぱい聴いてるんだけどそれに縛られないっていう感じがして、でもいいところはちゃんと全部筋が通ってるんだよね。

── ライヴ・パフォーマンスにはそれぞれ体温差があるから一見、真逆な人選もある印象ですけど、「百鬼夜行」出演アーティストのCDが並んでる棚を想像すると、“音楽マニア”というよりは“音楽好き”のCD棚みたいな感じで、僕は好感もてますね。

 逆にマニアックなリスナーって、どっちかっていうと偏狭な価値観を持ってたりするから、これは認めるけどこれは認められないみたいなのがかえって多かったりして、もう少しマニアックな形で閉塞してないような音楽をたくさん聴くリスナーの方が自由だったりすることってあるじゃないですか。逆に、いろんなジャンルが聴けちゃうっていう……完全にそれだよね。
 だから逆にいうと、くるりがやっていく個々のジャンルに異常なほどこだわってる人からは、もしかしたら評判悪いのかもって思う。こんな音楽をやってたのにこういう曲もやりやがって!、っていうのあるじゃない。そういうのもあるのかもしれないけど、それこそ1つのジャンルやスタイルに過剰なほどこだわらなくちゃいけない人っていう方が不幸なんだから。こっちの方が全然楽しいんだからね。
 だから「百鬼夜行」みたいなやり方が成功してるっていうのはすごくいいことだし、ある意味では、ああいうやり方でいっぱいお客さんも来て、続けられて、それがさっき言ったみたいに単なるパッチワークじゃなくてちゃんと繋がってるのを見せてるっていうことの中に、もしかしたらロックの未来があるんじゃないかなっていう気はしますけどね。

── なるほど! いや、今日はいい話を聞かせていただきました。

 感動的でしょ!(笑)。でも僕、個人的にはね、やっぱり今でも「東京」が好きなんですよ。だからああいう曲をまたやってほしいって思うんだけど、でもそういうのだけじゃないっていうことが彼らのすごさだっていうこともやっぱりすごくわかる。でも僕はある意味プライベートな感覚ではね、たとえくるりが「東京」みたいな曲をずっと淡々と出していく、そんなに売れないバンドであっても、心から愛したと思う。偏愛し続けたと思う。でも、そういう僕の個人的な偏愛にとどまるようなスケールのバンドじゃなかったということで(笑)。それはいちばん最初に聴いたときにはちょっと見誤ってたと思う。正直、今の彼らの姿をまったく想像していなかったので、驚きですよ。たいしたもんです。

(フリーマガジン『アタリ』に掲載されたインタビュー。聞き手はフミ・ヤマウチ氏。語りということでわかりにくい部分はご勘弁を)